考えなくていいことをわざわざ難しく考える場所

ブログ名の通りです・・・自分の哲学を作りたい!(野望)

file:1 科学について

科学とは・・・

私は科学が好きだ。地球上で唯一人間だけが持つもので、生活をより豊かにするもの。今身の回りにおいて「科学」が用いられていないものは無い。科学は哲学や宗教とは区別して考えられるが、『より良く生きる』という点では同じものの様に感じる。社会科学や人文科学も広義の科学ではあるが、やはり科学と聞いて思い浮かぶのは物理学や生物学、化学、そして数学だろう。

「数学できない系」

私は文系である。というより数学できない系といった方が正しい。理系の数学得意な人間からすれば「何が分からないのか分からない」のだろうが、そんなことこっちだって分からない。これまでの人生の7割近くを算数と数学に費やしてきたが、苦手意識の正体は今でも掴めていないのだ。
算数の領域を超えた数学は、実生活には役立たない。私はその偏った頭でそう確信している。しかし、奇しくも数学を用いなければ生み出せないものは実生活には必要不可欠なのだ。物理学も生物学も化学も、数学ありきの学問だ。化学の応用である医学薬学も歯学も、物理学からなる建築学だって言わずもがな。服飾だって食物だって広く見渡せばどこかに数学は潜んでいる。
つまり数学なくしては衣食住もままならない。裏を返せば私は生活のほぼ全てを数学に委ねておきながらそれを理解することを拒否しているという状態だ。
非常に危険な状態である。まあ、だからといって今から数学を勉強するかと言われると返答に困るが。だって・・・ねぇ?

二人の悪魔

私が科学を好きな理由は時折パラドックスや哲学のようなものが現れるからだ。世界の真理に吸い寄せられる私はこういったものに弱い。
今思いついたものでいうと「ラプラスの悪魔」と「マクスウェルの悪魔」とか。

 

前者は宇宙全ての物質の位置と運動を把握することができれば完全な未来予知を行うことができるという説。例えば、手に持った野球ボールを真下に落とすとき。私たちは手の中に野球ボールがあること(物質の位置)を知っており、そこから手を離すと野球ボールは真っ逆さまに落ちる(物体の運動)を知っている。なので、結果を見ずともボールが辿る未来は大体予見することができる。というものを宇宙全体に応用したもの。最終的にはこれは否定されてしまうがなんとロマンある説ではなかろうか。

 

後者は物質内の熱分子を完全に観測すれば熱力学第二法則で禁止されたエントロピーの減少が可能になるという・・・分かりやすく言えば、「ぬるま湯を熱湯と冷水に分ける」ことができるようになるという説だ。
最終的には「分子の移動が完了するたびに悪魔の記憶を消去することが必要」とか言い出すので詳しいことはちんぷんかんぷんなのだが、不可逆現象に対峙する試みというものもまたロマンがある。

終わりに

人間の科学の進歩は留まることを知らない。生活はどんどん便利になっていくし、肉体は徐々に必要のないものとして認識され始めている。
いつか人間は物理法則を超えて永久機関を完成させ、無限のエネルギーを得ることができるようになったりするのだろうか。脳髄だけの姿になり永遠の楽園で過ごすことになるのだろうか。機械が人間を管理するような時代はくるのだろうか。その良し悪しはともかく、いつかそのような時が来たらその瞬間に立ち会ってみたいものだ。

file:0 この場所について

哲学とは・・・

私は哲学が好きだ。『哲学』という言葉を使うだけで賢そうに見えるし、人間や社会や世界の真理に近づいていく、触れる感覚が心地良い。「教えられる」と「啓蒙される」はなんとなく充足感が異なると思う。
哲学は生きていく上で実生活にほとんど役に立たない分、教養。人生をどれだけ豊かなものにするかに絶大な影響を及ぼす。例えば、人間は根源的に「分からないもの」を恐れる。だから何の情報もない「死」を恐れる。そこで宗教を作り死後の世界を補完し崇めることで安心する。宗教だけじゃない、愛、いのち、幸せ、とどのつまり『より良い生き方』を目指して哲学者たちは東奔西走する。
私は哲学者に憧れはしないけれど強く尊敬している。某天を目指した死神曰く「憧れは理解から最も遠い感情」らしい。私は哲学者になろうとは思わないが、彼らの様に自分の中に一本芯の通った『哲学』が欲しいとは思っている。困ったときにそれ自身が助けてくれるような心の支柱が欲しい。どうせ一度きりの人生、おもしろおかしく生きたいじゃないか。
ここは日常のあれこれを深く考えて自分だけの哲学を模索する場所。何のとりえもない私が足りない頭を絞って紡ぐこの空間を、読者の方々ともぜひ共有したいと思っている。